縄文研究その3 縄文時代の土器破壊=魂ぬき(たまぬき)を実証実験する

 

縄文の土器は壊れて集団で出土することがある。鎌倉時代の石うすの破壊は「魂ぬき(たまぬき)」と富士見町史は明らかにしている[1]。縄文土器の破壊も魂ぬきであると明らかにするために実証実験を行うことがこの研究の目的である。八ヶ岳西南麗に神野・原山はあった。守矢神長官による神権時代は中世を飛ばして江戸・近世に入った。本研究は、神野・原山の主域にある博物館に現在展示されている縄文土器を実験の対象とした。縄文遺跡数密度の高い場所から低い場所へと順に調べた。すなわち、八ヶ岳美術館(原村)、井戸尻考古館(富士見町)、八ヶ岳総合博物館、尖石縄文考古館の順である。縄文の神野・原山の次は、時を進めて弥生時代以降など、あるいは、場所を広げて南の甲斐・相模、北の越後・越中・越前にある博物館に展示されている土器などへ実証実験の対象は進む。

中央構造線愛好家

加藤 覚

2026年正月

理論

 縄文人は現代人が理解できない縄文人の考えに従って土器のすべてを破壊する。この原理を実証実験する。すなわち、博物館に展示されている土器には破壊されていないものはないことを示す。また、すべての土器は欠損し「魂ぬき」されていることを明らかにする。

 

実証実験の方法

目視によって破損部位を調べた。展示土器の正面・裏・上部・下部が目視できる土器を含む。また、正面のみ目視できる土器も含まれる。転倒防止のために土器内部に詰め物があり、内部は下半が目視できない土器を含む。

目視点1: 上縁から底に続く縦割れ痕があるか、輪積のあとを示す水平割れ痕があるか目視した。衝撃破壊痕の欄には、上縁から下縁まで続く明瞭な縦割れ痕、あるいは、輪積痕が明瞭に残る水平割れ痕のいずれかが認められる場合には割れ痕を記した。

目視点2: 底が一部でも残っているか目視した。底がないか、一部欠であば、その土器は縄文人が壊した。その土器は、縄文人がその土器をその場所に置いた後に壊れたのではない。土中であるから、壊れれば破片は残らなければならない。底を先ず目視するのは、衝撃を与えて破壊するのであれば底を打つのが最も効率的あろうという現代人の予想である。欠損状況欄には「底なし」あるいは一部残っていれば「底欠」と記した。

目視点3: 土器側面を目視した。博物館によって修繕が施された土器側面に元の土器の欠損が認められれば欠損状況欄に「側欠」と記した。側欠には側面に穴が開いている土器と穴が修繕によってふさがれている場合の両方を含む。また、側面がなく、上部と下部が分離している場合は「側なし」と記した。土器は亀の甲羅状に割れて出土する。野焼きしたときに溶融状態に近づいた材料内部で温度差によって自然対流が生じ、亀の甲羅中央部から湧きあがり甲羅周縁部に沈み込んだ対流によってベルナードセルができ、甲羅周縁部が割れた結果である。ベルナードセルができるとハチの巣状正六角形の集合体になる。低温で野焼きして出来る縄文土器は材料が溶融状態に至らず相境界はカケラ状の周縁線に留まる。縄文土器に衝撃破壊力を与えると、土器内部に発生する応力は尖ったところに集まりやすいという力の性質によって、甲羅周縁部に応力が集中して、応力集中による破砕が生じる。甲羅(カケラ)周縁部が三方以上の方向から集まった場所では著しい応力集中により集中部は粉々になる。これが起きると、再生復元するときに粉の集合は再生できないので欠損が生じる。甲羅(カケラ)周縁部が複数線集合した位置に現われる欠損は衝撃破壊があったことを示す証拠となる。本研究では、亀の甲羅部位(大きなカケラ)の欠損に加えて、このような衝撃破壊痕による欠損も「魂ぬき」の結果として扱う。

目視4: 上縁を目視した。上縁がない場合には「上縁なし」と記した。上縁の一部が欠落している場合には、補修によって代替材が充填されている場合であっても「上縁欠」と記した。土器全体で複数欠損している場合には、底、側、上縁の順に優先順位を下げた。

目視点5: 修繕され展示されている縄文土器の亀の甲羅(かけら)部位はそろっていて衝撃破壊痕による欠損も認められないときには、そのことを「割片周縁部無破砕完形土器」と記した。

目視点6: 以下の実験結果において土器が破壊されているか否かについては記載していない。それは、中山真治[2]が主張するように「縄文の土器に完全無欠で出土するものは無く、すべてが壊れて出土する」に従うからである。壊れているかいないかは記載しないが、もし、完全無欠で壊れていないものがあれば特別に表末に赤字注釈する。また、本文に注記する。

目視点7: この縄文研究論文が国宝に相当すると認めた場合には、通し番号に(必見)と朱書した。さらに、表末尾に必見の理由を注釈した。本文にも注記した。国宝要件は明らかになっていない。歴史性と出自の確かさについては博物館に展示される縄文土器は正当である。そこで、芸術性と美術性および実用性から判断した。

目視点8: 以下の目視においては縄文人がいつ土器を破壊したかは考慮していない。縄文人が住居址などの奉納場所にすでに壊れてしまっている土器をそのまま奉納し、数千年の時を経て土中でこの壊れた土器が更に亀の甲羅状に自然に壊れた場合には、健全な土器を亀の甲羅状に破壊した後に一部を別の場所に奉納し、残りをその奉納場所に奉納した場合と区別ができない。もし区別できるとすれば、再生された甲羅周縁部が破砕による欠損を持つ場合である。これらの場合は単に欠損土器として扱う。すなわち、欠損のある土器には、縄文人が壊れた土器を奉納した後に、長い年月の間に、自然に亀の甲羅状に破壊が進んだ土器を含む可能性がある。この場合も「たまぬき」されたとして扱う。

目視点9: 口径は目安である。小数点以下一位まで書かれている場合は実測値である。

 欠損土器の分類: 本研究において目視した土器の欠損は以下の4つに分けられる。

i)                完全無欠土器でありヒビもない土器

ii)              割片周縁部無破砕完形土器でありカケラ周縁部に破砕欠損がない土器。

iii)            底欠、側欠、上縁欠などに分類され、充填剤で補充されていて穴がふさがれているか、ふさがれずに穴のあいた土器

iv)             下なし、側なし、上縁なしなどに分類され、土器の過半ほどが失われて展示されている土器

展示されていて土器の形をもっていないものは目視対象から除いた。

 

実証実験の結果

土器の展示 実験結果を表1から表9にまとめた。表のタグが末尾にある。

表1に示した原村八ヶ岳美術館に展示されている縄文土器の欠損・「たまぬき」状況は、95の展示土器のすべてが欠損していることを示している。また、これらカケラを修復した縄文土器のすべてにカケラ周縁部衝撃破砕痕が認められた。縄文の時代は前期(阿久)と中期である。欠損の状況は底のない土器が14である。輪積線に沿って水平に破壊している土器が5、破壊痕が上下に貫通している土器が30ある。阿久遺跡から出土した縄文前期の土器は薄くのびやかである。それは、阿久遺跡から見える遠くて低い八ヶ岳全景の前に広がる平面段丘を写したのであろうか。

表2の富士見町井戸尻考古館に展示されている縄文土器の欠損・「たまぬき」状況は、267の展示土器のすべてが欠損していることを示している。また、これらカケラを修復した縄文土器のすべてにカケラ周縁部衝撃破砕痕が認められた。おおよそ8割の土器が強い衝撃を受け、縦方向破壊痕あるいは水平方向破壊痕をもつ。1番から10番までの藤内遺跡から出土した土器は焼け落ちたと考えられる住居跡から出土した。しかし、完全無欠な土器はなく、割片周縁部無破砕完形土器もない。すべてが欠損していて、欠損したカケラは出土場所にはなく、縄文人が持ち去っている。井戸尻考古館に展示されている縄文土器は筒形・背高、かつ、流麗である。井戸尻遺跡から見る富士を写したに違いない。

3に示した茅野市八ヶ岳総合博物館に展示されている縄文土器の欠損・「たまぬき」状況は、16の展示土器のすべてが欠損していることを示している。また、これらカケラを修復した縄文土器のすべてにカケラ周縁部衝撃破砕痕が認められた。縄文の時代は早期から後期までを含む。前期と中期が多い。欠損の状況は底のない土器が11である。輪積線に沿って水平に破壊している土器が1、破壊痕が上下に貫通している土器が6ある。高風呂遺跡から出土した縄文土器は薄く整っている。高風呂遺跡高札前から見える八ヶ岳全景の鋭さを表したのであろうか。

表4に茅野市尖石縄文考古館に展示されている縄文土器の欠損・「たまぬき」状況を示す。218個体の展示土器のすべてが欠損していることを示している。また、これらカケラを修復した縄文土器のすべてにカケラ周縁部衝撃破砕痕が認められた。御社宮司遺跡出土の縄文晩期の深鉢(1)必見である。この必見土器は本研究における次の国宝条件を満たしている。

i)                薄い(芸術性)

ii)              漬物鉢ほどに大きい(実用性)

iii)            表面が滑らかで張胴径/底径/くびれ径/口縁径10/7/8/9の比に整っている(美術性)

この必見土器は側欠であり修復されているが、鑑賞できる。後期までに作成された縄文土器は厚いので芸術条件i)を満たさない。同時期(縄文晩期)における類似の土器は大花遺跡(富士見町井戸尻考古館に展示)と金生遺跡(北杜市歴史資料館に展示)から出土しているが、これらは小さく、実用条件ii)を満たさない。表面が滑らかな土器は弥生時代以降に多種出土するが張胴径/底径/くびれ径/口縁径比によって規定される美術条件iii)を満たさない。博物館の説明パネルにはこの土器は関西系ではなく関東系とある。神野から関東へ続く中央道沿の金生遺跡からも出土している。関西へ続く富士川沿いの南アルプス市ふるさと文化伝承館には縄文晩期の類似土器の展示がない。これはこの必見土器(1)が関西系ではないと暗示している。縄文晩期における神野の北端に御社宮司遺跡があり南端に大花遺跡があった。晩期にはこれら二つしか遺跡はない。これら二つの遺跡から必見土器とそれに類似した土器が出土したことは神野ができた最初からこれらの遺跡は連携しており、それぞれ神野の北端と南端を区分していたことを示す。

下ノ原遺跡から出土した縄文前期の深鉢(2)必見である。この土器は本研究の国宝要件を満たしていない。しかし、この土器は人が壊してその奉納場所に奉納したということが出土状態からわかる唯一の土器であるから、国宝的確である。この展示土器を目視して得た欠損状況は「側欠かつ輪積線水平破壊痕」である。すなわち、他のすべての土器と類似している。本縄文研究その3は目視による欠損からこの土器を含む他のすべての土器は縄文人が破壊して「たまぬき」したと主張する。加えて、この必見土器はそれとは別に出土状態から縄文人が破壊したことを示している。類似の縄文前期における方形口深鉢は天神遺跡(山梨県立考古博物館と北杜市歴史資料館に展示)から出土している。目視した欠損状況は輪積線水平破壊痕を除いて似ている。しかし、縄文人が破壊したという出土の証はこれらにはない。この必見土器の出土状況写真を見ると方形口を広げた上半分は瓦解せずに原形が保たれている。展示土器を目視すると広がった方形口部に縦割れ痕が複数本走り、カケラ周縁部破壊線(亀の甲羅周縁線)が複数集まった部位は衝撃破壊の証として欠損している。以下のことがわかる。この土器は縄文人が破壊したときに水平破壊痕から下は瓦解し、水平破壊痕から上は瓦解寸前状態であったが、6000年土中にあっても上は瓦解しなかった。すなわち、縄文土器は土中では壊れないことをこの土器は示している。この土器は全くもって貴重である。その存在は国宝的確を越えて、もはや「国宝当確」である。この必見土器は虫や種などが土器制作過程において入り込み焼成時に欠損となって、それが原因となって土中で自然に壊れたのではない。欠損部はカケラ周縁部が複数線集まった部位であり、衝撃欠損している。この必見土器は土中で土圧などというものによって土器は壊れないことを証し、圧痕などというものによって土中で土器は壊れないということを証ている。この必見土器は「国宝当確」であり「必定国宝」である。

死体頭蓋にかぶせられて実用された国宝浅鉢3番から10番のうち、目視によると、中ツ原遺跡59号土坑から出土した縄文後期の浅鉢(3)は側欠をもつ。この土器は中ツ原遺跡発掘報告書[6]では完形土器と記されている。出土時の写真は見当たらない。4番は中ツ原遺跡94号土坑から出土し、目視により側欠損していて、報告書[6,参考図判3]の写真にある通り側欠している。他の国宝浅鉢6個体も目視により、また、文献[5, 6]の写真にある通り欠損している。これらのカケラは縄文人により行方知れずなっている。

縄文早期に向林遺跡から出土した深鉢(12)は上縁にあるカケラの内側に縞文様を持つ。縄文早期に駒形遺跡から出土した土器(90)は上縁下にあるカケラの内側に凸凹文様を持つ。いずれの土器においても内側にある文様と同じ文様が土器外側の張り出し最大胴径近隣にある。前期以降に土器カケラ裏側に(土器内側に)文様を持つ土器は見当たらない。縄文早期の前、縄文草創期には土器表と裏に「縄文様」を持つ土器(表裏縄文土器)が存在すると長野県立歴史館が説明している(後の表53)。しかし、これらの土器は内側を目視できるように展示されていない。従って、「表裏縄文土器」が存在すると確信できない。わずかに、発掘報告書にあるスケッチによって表裏に文様があると知るのみである(駒形遺跡報告書では表裏ではなく「外面内面」となっていて統一されていない)。縄文人が土器の「魂ぬき」をする理由を探るためには、無紋から始まった縄文土器が[4]、表裏縄文土器(草創期と早期)、薄手表縄文土器(前期)、厚手表縄文土器(中期)、中薄手表縄文土器(後期)、薄手無文様縄文土器(晩期)と変遷する理由を明らかにすることも必要である。縄文早期の遺跡からは表裏に文様をもつ土器が報告されている[7]。長野県柳又遺跡発掘報告書には表裏縄文土器が出土した45の遺跡一覧が示されている[8]。向林遺跡や駒形遺跡は見当たらない。中部地方に多く、草創期後半から早期前半が多いとある[8]。「魂ぬき」との関係では、神野・原山近隣にある博物館を調べているので他地域にある土器との比較はできない。時期については草創期から晩期までどの縄文時代においても魂ぬきされているが、草創期から前期までは親指大のカケラとして出土し、明瞭な衝撃破壊痕が見当たらない。また、出土するカケラの数は時代が古くなるほど少なくなる。

縄文中期に尖石遺跡から出土した深鉢(209)は、展示物写真によると、石囲炉中央から瓦解せずに出土した。生活面からそのまま出土しているので完全無欠土器と期待したいが、残念ながら、底に3cm大の穴があけられ、上縁が打ち欠かれている。この時出来た衝撃縦破壊痕が胴中央部まで走っている。この土器は土中に5000年あっても自然には土器は壊れないことを示していて貴重である。生活に利用していたときに既に「たまぬき」されていた。何百年の間に土がたまって廃屋窪地になった奉納場に壊して奉納し、その一部を持ち去る必要は最初からなかった。一方、石囲炉も「たまぬき」される。炉石の一部あるいは全部が抜き去られて行方知れずになるが、209番を囲っていた炉石については言及がない。125番も瓦解せずに出土した写真が示されている。この大きな深鉢は壊された上縁を上にして胴径より大きな石を戴いて出土している。5000年土中にあっても瓦解しない例になる。

5には長野県立歴史館に展示されている縄文土器の欠損・「たまぬき」状況を示す。19個の展示土器のすべてが欠損している。また、これらカケラを修復した縄文土器のすべてにカケラ周縁部衝撃破砕痕が認められた。16000年前の縄文草創期の土器は上縁近くの一部カケラのみが残り、側の大半と底はない。縄文土器は縄文時代(16500年前以降[文献3, p.10])に作成された土器と定義されるが[文献4, p.89]、驚くことに、長野県立歴史館に展示されているこれらの縄文時代草創期の土器カケラにはすべてに文様がある。最初の縄文土器は無紋であった[4]

表6には北杜市歴史資料館に展示されている縄文土器の欠損・「たまぬき」状況を示す。119の展示土器のすべてが欠損している。また、これらカケラを修復した縄文土器のすべてにカケラ周縁部衝撃破砕痕が認められた。おおよそ5割の土器が強い衝撃を受け、縦方向破壊痕あるいは水平方向破壊痕をもつ。通し番号3の埋甕は底を破壊されている。4番の埋甕は胴に穴が開けられている。いずれも、側部にカケラ状欠損をもち、強い衝撃を受けている。

表7には釈迦堂遺跡博物館に展示されている縄文土器の欠損・「たまぬき」状況を示す。85の展示土器のすべてが欠損している。また、これらカケラを修復した縄文土器のすべてにカケラ周縁部衝撃破砕痕が認められた。おおよそ8割の土器が強い衝撃を受け、縦方向破壊痕あるいは水平方向破壊痕をもつ。釈迦堂遺跡の土器は決まった奉納場所に奉納されている。土偶も同時に奉納されている。出土土偶の数は三内丸山遺跡に次いで多い。釈迦堂遺跡から出土した1116個体の土偶はすべて欠損している。土器もすべて欠損していて魂ぬきされている。宮の前遺跡から出土した1415番の埋甕は、山梨県立考古博物館にある埋甕説明パネルの写真によると、「非常に残りの良い出土状態」となっている。欠損部を除いて瓦解せずに原形を保っている。14番は底が打ち欠かれていて底を上にして出土した、写真では底から10cmほどの幅に包帯がまかれていて土器表面は見えない。この部分の原形はわからない。15番は底に近い側に3cmの穴を開けて底を上にして出土した。穴の周りは強固に補修されていて、穴を打ち欠いたときにできた明瞭な縦破壊痕が胴の中央部まで伸びている。側欠の内容は、いずれの土器も破壊したのは打ち欠いた部位近くに留まり、側全体に及んでいない。この2つの土器が瓦解せずに出土したことは土中に5000年あっても瓦解しないことを示している。さらに、他の土器を含めて85点のすべての土器は欠損しており、欠損部は出土した場所に残っていない。このことも壊れたのは土中にあったからではないことを示している。土器の破壊の後、欠損部は縄文人により「魂ぬき」行為の一部として行方知れずになっている。釈迦堂遺跡から出土した欠損土偶と欠損土器は喧伝される「土圧破壊説」を否定する。瓦解せずに出土した埋甕が存在するからである。また、土圧で破壊されたのならカケラはすべて残っていて完形に再現されなければならないが、すべての個体は欠損して出土し、完形に再現できないからである。釈迦堂遺跡から出土した欠損土偶と欠損土器は「圧痕破壊説」を否定する。圧痕は出土したカケラの中あるいは表裏にあるのであり、カケラ周縁部にはないからである。圧痕部は壊れていないからである。

縄文中期に釈迦堂遺跡から出土した有孔深鉢(18)は秀逸に修繕されている。胴部は輝いている。有孔口縁部の凸凹がなければ国宝的確である。薄く(芸術性を満たし)、大きい(実用性を満たす)。縄文早期と前期の流れであろうか、底のすぼみは強い。

表8は山梨県立考古博物館に展示されている縄文土器101個のすべてが欠損していて「魂ぬき」条件を満たしていることを示している。おおよそ4割が縦・水平割れ痕をもち、強い衝撃を受けている。8点の埋甕については埋める前に甕に丸穴を開ける、底を打ち壊す、口縁を打ち壊すなどの人為的破壊を施している。埋めた後に甕に衝撃を与え、すべての甕の側に亀の甲羅状カケラ破壊を施している。山梨県立考古博物館にある埋甕説明パネルによると、前者の破壊は(甕内の人・胎盤に対する)「魂(たましい)ぬき」であると予想している。後者の破壊(土器・甕に対する)「たまぬき」については言及していない。すなわち、縄文土器に対する「たまぬき」は、鎌倉時代の石うす破壊に対する民俗学研究の結論[1]を縄文時代の土器破壊に適用して得た本研究のオリジナリティーである。藤井整[9]は完形に戻せない土器破砕行為を被葬について述べており、山梨県立考古博物館にある埋甕説明パネルの内容と合致している。Google ChromeMS EdgeなどのAIを利用すると「土器は完形に再生できない状態で出土する」と断言するところまでは研究論文そのものをたどることによって到達できる。考古学では研究論文そのものをWeb上に個人・団体が公開している素晴らしさである。しかし、「たまぬき」(現実の土器に宿る命・霊魂・神をぬくこと)と「けがればらい」(土器にまとわりつく穢れを除くこと、文献[9]に詳しい)を区別できない。本研究は、すべての土器が破壊され、破壊されたすべての土器が欠損しているので「たまぬき」されている(欠損部は出土場所にない)と主張する。

表9南アルプス市ふるさと文化伝承館に展示されている縄文土器181個のすべてが欠損していて「魂ぬき」条件をみたしていることを示している。また、これらカケラを修復した縄文土器のすべてにカケラ周縁部衝撃破砕痕が認められた。おおよそ8割が縦・水平割れ痕をもち、強い衝撃を受けている。鋳物師屋遺跡は水害によって突然没した遺跡と考えられているが、土器の衝撃破壊の割合は他の遺跡より高い。また、「魂ぬき」せずに放置され完全無欠で出土した土器は一つも見当たらない。

 

1 原村八ヶ岳美術館に展示されている縄文土器の欠損・「たまぬき」状況

2 井戸尻考古館に展示されている縄文土器に対する実証実験結果(作成中)

3 茅野市八ヶ岳総合博物館に展示されている縄文土器の欠損・「たまぬき」状況

4 茅野市尖石縄文考古館に展示されている縄文土器の欠損・「たまぬき」状況

 表5 長野県立歴史館に展示されている縄文土器の欠損・「たまぬき」状況

 表6 北杜市歴史資料館に展示されている縄文土器の欠損・「たまぬき」状況

 表7 釈迦堂遺跡博物館に展示されている縄文土器の欠損・「たまぬき」状況

 表8 山梨県立考古博物館に展示されている縄文土器の欠損・「たまぬき」状況

9 南アルプス市ふるさと文化伝承館に展示されている縄文土器の欠損・「たまぬき」状況

 

破壊痕の過多 博物館によって破壊痕(縦破壊痕と水平破壊痕)に過多がある。片面のみを展示する展示法の過多、および、修復方法の違いによる。破壊状況が最もわかりやすいのは土器内側の欠損状況を見ることである。しかし、破壊の結果生じた凸凹を滑らかにしてツルツルの状態に修復した場合には破壊状況を確認しづらくなる。内面においてカケラとカケラが離れた状態に滑らかに修復されていて隙間が上下に貫通する場合には「上下貫通衝撃破壊痕」と記した。 

出土状態の写真とカケラ欠損 原村八ヶ岳美術館に展示されている前尾根遺跡出土の釣手土器(75)は説明パネルでは「ほぼ完形」とあり、出土状態写真では一部欠損が現れ、展示されている土器には「側欠かつ上下貫通縦破壊痕」が現れている。側欠にはカケラ欠損が認められ、破壊線上の衝撃欠損には留まらない。大石遺跡の説明パネルでは「完形・半完形の土器300」とあるが、展示されている土器はカケラ欠損を示している。破壊線上欠損に留まった土器も、割片周縁部無破砕完形土器も見当たらない。井沢尾根遺跡の説明パネルにはバラバラにされた破片として住居跡から出土した状態が写真に示されている。これらを集めて修復した50点の土器が紹介されている。展示されている土器もすべてカケラ状欠損を持つ。完形として出土しても、カケラ状破片として出土しても修復後に展示された土器はカケラ状欠損をもつ。

 井戸尻考古館に展示されている縄文土器のうち藤内遺跡9号住居跡から出土した土器は、説明パネルの写真によると、瓦解している。これらに対応する展示土器1番から10番はカケラ状欠損をもつ。状況は他の遺跡から出土した土器についても同じである。すなわち、藤内中央墓群から出土した106番の土器も、藤内遺跡32号住居跡から出土した112番から134番の土器も、久兵衛尾根遺跡44号住居跡から出土した土器も、井戸尻遺跡4号住居跡から出土した土器も、曽利遺跡4号および5号住居跡から出土した土器も、瓦解し、あるいは、カケラ状となって出土している写真が示されている。これらが修繕再生されて展示されている土器は、すべてカケラ状欠損をもつ。

博物館展示と発掘報告書: 本研究「縄文研究その3」において、9つの博物館に展示されている合計1101個体の縄文土器を目視した時期は20261月と2月である。特別展のあった博物館の土器は展示されている博物館と異なる博物館の展示土器である。例えば、釈迦堂遺跡博物館展示の14番と15番の埋甕は山梨県立考古博物館に展示されていた。

 「完形土器」の定義は縄文考古学では明確ではない。博物館の展示パネルと発掘報告書にある「完形」という表現はすべてが同じ意味を表すわけではない。「ほぼ完形」もあるし「半完形」もある。1101個体を目視した結果、完形と表現されたすべての出土土器はカケラ状欠損をもっていることがわかった。この点において目視が間違っている最も可能性の高い土器を挙げるなら国宝浅鉢(尖石縄文考古館展示土器3)である。他の国宝浅鉢同様に国宝修復されているが、3番のみ出土状態がわかる写真が報告書に見当たらない。他の国宝浅鉢は出土状態から欠損していることがわかり展示土器もカケラ欠損しているとわかる。3番の浅鉢のみ展示土器の目視によりカケラ欠損しているとわかる。

 石川県・富山県・新潟県・長野県・群馬県の博物館展示土器 本研究が国宝必見土器として挙げた薄手壺形深鉢縄文土器およびその類似土器は縄文晩期における3つの遺跡から出土した。尖石縄文考古館展土器1(必見御社宮司遺跡出土)、井戸尻考古館展示239(大花遺跡1号住居址出土)、北杜市歴史資料館展示土器83(金生遺跡出土)である。北杜市歴史資料館の金生遺跡出土土器説明パネルでは関東系の他に東北系と北陸系が挙げられている。石川県能登半島にある真脇遺跡縄文館に展示されている縄文晩期真脇遺跡から出土した薄手壺形深鉢縄文土器は、神野およびその近隣から出土した薄手壺形深鉢縄文土器とよく似ている。これらの土器の外面の色は金生遺跡出土の土器を除いて縄文土器特徴色「赤褐色」ではない。黒色または緑色である。野焼きであるが窯焼き須恵器の色に近い。焼成時に炭化物を沈着させている。また金生遺跡出土の土器および大花遺跡から出土した土器は他の薄手壺形深鉢縄文土器とは異なり、縄文様(掘り込み・付加凸凹文様)が外側に施されている。以下では、壺形深鉢縄文土器、あるいは、縄文時代草創期・早期の土器および表裏文様土器に注目して調査した。

石川県真脇遺跡から出土した縄文時代晩期の薄手壺形深鉢縄文土器は尖石縄文考古館展土器1(必見土器)に厚さ形色など極めて似ている。カケラの残りも多い。いずれも、外面に縞文様(転がし痕)を持つ。異なっているのは口縁部の径が最大胴径に等しく口広ということである。いずれが先かを予想すると、「技術は伝搬する」という鉄則に照らして、粗雑さが少し現れている必見土器が先に作成された。石川県真脇遺跡(縄文前期から晩期遺跡)の展示土器はすべて破壊され欠損している。真脇遺跡は淡水に没していた遺跡である。縄文土器の破壊と欠損状況は神野とその近隣から出土し、上記9つの博物館に展示されている土器と同じである。真脇遺跡から出土した土器の欠損状況は土圧破壊説を否定する証拠になる(202643日追加)

富山県氷見市立博物館展示の縄文土器もすべて破壊され欠損している(202643日追加)

富山県埋蔵文化財センターに展示されている神明原A遺跡から出土した縄文早期土器には口縁部内側に水平堀線文様がある。外側にも同じ水平堀線がある。柳又遺跡報告書[8]の一覧(2)には富山県から出土した表裏縄文土器の記載はない。富山県埋蔵文化財センターに展示の縄文土器もすべて破壊され欠損している。これらには小竹貝塚から出土した縄文時代前期の土器も含まれる。土の中に6000年埋もれていても貝塚の中に6000年埋もれていても破壊・欠損の状況は同じである(202654日追加)

富山県朝日町埋蔵文化財保存活用施設に展示されている境A遺跡から出土した縄文晩期の薄手壺形深鉢縄文土器は口縁部が大きくて、真脇遺跡から出土した縄文晩期の薄手壺形深鉢縄文土器と形が似ている。しかし、外面の色は土師器色に近く、須恵器色に近い真脇遺跡の土器とは違っている。富山県朝日町埋蔵文化財保存活用施設に展示の縄文土器もすべて破壊され欠損している(202654日追加)

新潟県津南町埋蔵文化財センターに展示されている湯沢町宮林B遺跡出土の縄文早期前葉深鉢土器(レプリカ)は口縁部内側に縞文様(転がし痕)をもつ。文献[8]の一覧(2)には新潟県から出土した表裏縄文土器として室谷洞穴遺跡(新潟県東蒲原群川上村)は挙げられているが、宮林B遺跡の早期土器は記載がない。津南町埋蔵文化財センターに展示されている正面ヶ原A遺跡から出土した縄文晩期後半の壺形深鉢は口縁部内側に深い掘り込み直線文様がある。同じ文様は外側最大胴径近くにもあり、外側は縄文様で(掘り込み・付加凸凹文様で)覆われている。この縄文晩期壺形土器は最大胴径より下は黒色である。野焼き土器であるから松葉など炭化物を土器作成時にまぶして外表面に成分残存させた。あるいは、使用時に炉を使って煮炊きされた。このいずれかである。上部は野焼き色(赤褐色)である。上部は晩期金生遺跡出土(北杜市歴史資料館展示土器83)の壺形土器の色に近い。また外面の文様は、いずれの晩期壺形土器も前期から後期のすべての土器に見られる凸凹縄文様に飾られている。真脇遺跡や御社宮司遺跡から出土した晩期壺形土器と厚さも色も文様も違っている。新潟県津南町埋蔵文化財センターに展示されている113点の縄文土器はすべて破壊され欠損している(2026429日追加)

新潟県馬高縄文館に展示されている長岡市中堂遺跡(中期から晩期の遺跡)から出土した縄文時代後期初頭の壺形深鉢は口縁部内側に縞文様(転がし痕)がある。カケラの数が少なく、明瞭ではない。外面は突き穴文様に覆われている。新潟県馬高縄文館に展示されている土器もすべて破壊され欠損している(202654日追加)

新潟県十日町市博物館に展示されている干溝遺跡出土の縄文時代草創期深鉢土器は隆起縄文土器と説明にある。この土器には、長野県立歴史館に展示されている縄文草創期に信濃町貫ノ木遺跡から出土した(51)隆起縄文土器および石小屋洞穴遺跡から出土した(52)隆起縄文土器と同様に、出土したカケラの数は限られるが、明瞭な隆起文が付けられている。新潟県十日町市博物館に展示されている縄文土器もすべて破壊され欠損している(2026429日追加)

新潟県立歴史博物館に展示されている縄文土器もすべて破壊され欠損している(202654日追加)

新潟県糸魚川市長者ヶ原考古館に展示されている縄文土器もすべて破壊され欠損している(202657日追加)

長野県中野市立博物館に展示されている縄文土器はすべて破壊され、欠損している(2026516日追加)

長野県須坂市博物館に展示されていて須坂市石小屋洞穴遺跡から出土した縄文時代草創期(16000年前頃)の隆起線紋土器(レプリカ)には明瞭な隆起文様が認められる。この土器の説明パネルには洞窟・岩陰遺跡が長野県と群馬県の境にある山岳地帯に40ほどもあると記されている。また、須坂市には70ほどの小規模縄文時代遺跡があり、遺跡数密度は0.5[平方キロメートル当たりの遺跡数]であり、八ヶ岳西南麗の遺跡数密度(1.1から2.5)に次ぐ。須坂市博物館に展示されている縄文土器もすべて破壊され欠損している(202652日追加)

長野県松本市立考古博物館に展示されている縄文後期にエリ穴遺跡から出土した薄手壺形深鉢は御社宮司遺跡から出土した壺形土器(41番、必見)と外面の色が似ている。くびれから上は無い。長野県松本市立考古博物館に展示されている縄文土器はすべて破壊され、欠損している(2026516日追加)

市立岡谷考古美術館(長野県)に展示されている縄文土器(早期から後期)はすべて破壊され、欠損している (2026410日追加)

佐久市考古遺物展示室(長野県)に展示されている縄文土器(草創期から中期)はすべて破壊され、欠損している。寺畑遺跡から出土した草創期の土器カケラ6種類は異なる6種類の土器に属するものである。草創期に出土する土器はカケラの数が少なく、土器の全体像をつかみづらくなる傾向は、いずれの草創期あるいは早期土器においても等しく現れる(2026514日追加)

群馬県埋蔵文化財調査センターに展示されている下谷戸B遺跡(渡良瀬川流域)から出土した縄文時代草創期の隆起線文土器(レプリカ)と徳丸仲田遺跡(前橋市)から出土した縄文時代草創期の隆起線文土器には明瞭な隆起線が見られる。群馬県埋蔵文化財調査センターに常設展示されている縄文土器もすべて破壊され欠損している(202654日追加)

 弥生時代の表裏縞文様土器 北杜市歴史資料館に展示されている弥生時代の壺形深鉢土器(明野町下大内遺跡から出土)には口縁部の内側に縞文様(転がし痕)を持つ。従って、表裏縄文土器は縄文時代草創期後半から早期前半に作成された土器[8]とは限らない。この弥生時代土器も破壊され欠損している(202645日追加)

市立岡谷考古美術館に展示されている弥生時代の壺形土器(海戸遺跡27号住居址出土)には口縁部の内側に縞文様がある。この弥生時代土器も破壊され、欠損している。柳又遺跡報告書[8]には縄文時代草創期後半から早期前半に中部高原に表裏縄文土器が多いと記述されているが、中部高原には弥生時代にも表裏縞文様土器があったことになる(2026410日追加)

尖石縄文考古館に展示されている弥生時代(1900年前)の壺形深鉢土器(家下遺跡から出土)は口縁部の内側に縞文様を持つ。この弥生時代土器も破壊され欠損している。北杜市、岡谷市、茅野市には弥生時代に表裏縞文様土器が存在した。これらに共通しているのは、弥生時代、中部高原の他に壺形であり、最大胴径の1/3から1/4ほどのくびれの上部にある口縁部内側に縞模様があることである。同じ縞模様は外側で最大胴径近隣にもある(2026423日追記)

松本市立考古博物館に展示されている弥生時代針塚遺跡から出土した壺形深鉢の口縁内側には鉛直方向転がし痕がある。外側には水平方向堀線がある。再葬墓から出土したと説明パネルにある。他に3個体の再葬墓出土壺形土器も展示されている。いずれもカケラ状に破壊され、カケラ周縁線が複数集まった場所では欠損穴を持つ。カケラ欠損および衝撃破壊欠損しているので弥生人により破壊され、縄文人と同じように、欠損部は持ち去られている。再葬骨壺を土坑内に置いて土坑を土で埋める前に衝撃破壊したか、土坑を土で埋めたあとに壺を衝撃破壊したかは、出土状態写真が説明パネルに示されていないので、不明である。縄文時代の埋甕においてもカケラ状に破壊されカケラ周縁線衝撃破壊欠損した甕は出土している(881番から87)。また、カケラ破壊せずに甕の原形を保ったまま出土した例もある(714番と15)。埋甕も再葬骨壺も死体あるいは骨を収めた後に内部に土を詰め土坑内に置いて土坑を土で埋めたとしたら、土器の内外は均質媒体()で詰まっているので、強い外圧が加わっても(パスカルの原理により)同じ強さの圧力が内部に加わるので土器の破壊が進むことはない。土器を破壊せずに内部まで土を詰めて埋めた場合、あるいは、長い間に内外に等しく土が積もってゆく場合は6000年経っても壊れずにそのまま出土する。内部に土を詰めずに外側だけ土を詰めて衝撃を加え破壊すると(「たまぬき」すると)、何百年の間に衝撃破壊された部位から土が入り込み甕や壺の下半を埋める。上部は空間があるので既にカケラ破壊している土器は外圧(上部に積もった土の重さ)によって崩れ落ちることになる。この場合には上部が瓦解して崩れ落ち下半は(カケラ状に破壊されているが)甕や壺の原形を保って出土する。どのような過程を経たかについては出土状態写真によって判断される(2026516日追加)

新潟県立歴史博物館に展示されていて佐渡市新穂平田遺跡から出土した弥生時代中期の壺形土器は口縁部内側に縞文様をもつ。破片の数は少なく明瞭ではない。外側最大胴径近隣には突起文様もある。この弥生土器も破壊され欠損している(202654日追加)

 表裏文様土器は縄文時代草創期後半と縄文早期前半(11000年ほど前)に表裏縄文土器(表裏転がし痕土器)として存在し[8]、その後は断絶して、弥生時代(1900年ほど前)に壺形の表裏縞文様土器(表裏転がし痕土器、裏側縞文様については確認位置は口縁部裏側のみ)として再び現れる。長い空白期がある。臼の「魂ぬき」にも長い断絶があった。縄文時代には存在し、弥生、古墳、飛鳥、奈良、平安時代を空白期として、鎌倉時代に再び現れる[1]。魂ぬきの理由を知るためには、弥生時代表裏縞文様土器として再び現れた理由について知る必要がある。

縄文時代前期以降において深鉢縄文土器の裏側(内側)に縄文様(掘り込み・付加凸凹文様) がある土器の数は著しく限られ4個体に留まる。松本市立考古博物館に展示されているエリ穴遺跡から出土した縄文時代後期・晩期の壺形深鉢には口縁部内側に水平掘り込み線がある。新潟県津南町埋蔵文化財センター展示の正面ヶ原A遺跡から出土した縄文晩期後半の壺形深鉢と長野県立歴史館に展示の北村遺跡から出土した縄文後期の深鉢(516)もある。北村遺跡発掘報告書にはこの土器に対する上面撮影写真も両面スケッチも見当たらない。北杜市歴史資料館展示の金生遺跡から出土した縄文後期の深鉢(669)にも裏側縄文様がある。しかし、金生遺跡発掘報告書には後期深鉢(669)上面撮影写真も両面スケッチも見当たらない

一方、浅鉢縄文土器の裏側(内側)に縄文様(掘り込み・付加凸凹文様)を持つ土器は驚くほど多い。長野県に限定すると、原村八ヶ岳美術館展示の縄文中期大石遺跡から出土した2つの裏側水平線浅鉢(142番と44)、井戸尻考古館展示の縄文中期曽利遺跡から出土した掘り込み・付加凸凹文様浅鉢(239)、および、尖石縄文考古館展示の中期裏側水平線浅鉢3個体、後期裏側水平線浅鉢14個体(国宝浅鉢7個体を含む)である。さらには、北村遺跡発掘報告書には浅鉢の上面撮影平面写真が8枚掲載されていてすべてに裏側に水平堀線をもつ。他の浅鉢の写真は掲載されていない。松本市立考古博物館には後期・晩期にエリ穴遺跡から出土した水平掘り込み浅鉢が展示されている。

 完全無欠土器の出現時期 奈良時代、平城京址および石橋北屋敷遺跡(南アルプス市)から出土した須恵器小皿()各一点が山梨県立考古博物館に展示されている(平城京址から出土した須恵器小皿は複製品)。上面(内面)を見ると完全無欠であり欠損はない。他の17個体の小皿は破損しカケラとして展示されている。この2点は、本研究の調査範囲内で、使用中に意図することなく起きた衝撃破壊も含めて、人により衝撃破壊されずに出土した最初の土器である。土坑(墓穴)から出土したか住居跡から出土したかは示されていない。石橋北屋敷遺跡発掘報告書にある出土写真を見ると土坑にせよ住居跡にせよ当該の1点を除いてすべて破壊されているので、奈良時代に「魂ぬき」は終わってはいない。その証拠に、半壊した回転式石の写真も掲載されている。すなわち、魂ぬきは縄文・弥生時代の後に奈良時代にも存在した。さらに、中間の時代、古墳時代にも土器はたまぬきされた。例えば、一時坂古墳(長野県諏訪市)を土師器と須恵器の集中堆積箇所6か所が囲んでいると一時坂遺跡発掘報告書にある。すべて破壊され、欠損している。縄文・弥生時代の因習、「たまぬき」した土器を死体回りに配する因習が古墳時代にも伝承されている。石うすの欠損によってたまぬきが明らかになった鎌倉時代にも御家人による大量のカワラケ破壊が認められる。例えば、諏訪市博物館には下諏訪町八島が原にある旧御射山遺跡から出土した破壊されたカワラケの山が展示されている。一枚のみ完全無欠な土師器カワラケも展示されている。

 

結論

 縄文時代から戦国時代まで存在し続けた神野・原山およびその近隣にある9つの博物館に展示されている縄文土器1101個体を目視した結果、以下の結論を得た。

i)                完全無欠土器は見当たらない。

ii)              割片周縁部無破砕完形土器は見当たらない。

iii)            すべての土器が亀の甲羅周縁部(割片カケラ周縁部)に衝撃破砕欠損をもつ。

1101個体には縄文人が利用中に意図せずに壊した土器も含めた。決まった奉納場所(多くは廃住居址)から出土し、修繕展示されている土器には原形を再生できない欠損があり、欠損部は行方知れずであり「魂ぬき(たまぬき)」されているからである。

 定理「縄文人は現代人が理解できない縄文人の考えに従って土器のすべてを破壊する」は神野近隣の博物館に展示されている土器の目視によって立証された。

 

文献

[1]  富士見町史 19913月発刊、p. 237

[2] 中山真治、国立歴史民俗博物館研究報告 第172集 20123

[3] 勅使河原彰、縄文時代ガイドブック、新泉社、20132

[4] 井口直司、縄文土器ガイドブック、新泉社、201212

[5] 茅野市縄文ガイドブック、茅野市教育委員会、20173

[6] 中ツ原遺跡、茅野市教育委員会、20033

[7] 栃原岩陰遺跡表裏縄文土器

[8] 柳又遺跡A地点第6次発掘報告書 国学院大学文学部考古学研究室 19963

[9] 藤井整 「土器を破砕すること、うちかくこと」京都府埋蔵文化財調査研究センター 20218