縄文研究その2 鎌倉時代石うすの破壊による「魂ぬき(たまぬき)」こそ縄文時代の道具破壊(石臼・土偶・土器・網籠破壊)の理由

 縄文の道具(土偶・土器・石器・網籠)は壊されて集団で出土することがある。縄文ではなく、人体が壊されて集団で出土した例には中国殷における首なし人骨の集団出土例がある。さらに、集団人骨出土例には、昭和の時代、中国東北部において埋葬された集団人骨出土例もある。縄文の人埋葬の多くは集団埋葬ではない。個別埋葬である。現在のように村はずれに墓穴(墓壙)を掘るのではなく、高台の一等地と思われる場所を墓域としてあらかじめ定め、住居は台地の下方から上方に向かって環状に作られていく。長い時を経て、環状に並んだ住居が墓穴群を取り囲むことになる。墓穴には平石や平らな土器のカケラが並べられている。さらには、人埋葬は住居の出入り口に埋甕(うめがめ)として個別に埋葬する例も多い。甕は必ず一部が破壊される。縄文と中国殷の間、あるいは、縄文と昭和の時代の間には共通関係は見いだせないが、縄文の物品埋葬と人埋葬には共通性が見られる。いずれも物品の破壊を伴う。それは、縄文人には何かが見えていたからである。守矢神長官による八ヶ岳西南麗における神野・原山の神権時代が、中世を飛び越えて神権古代から近世に飛んでしまい、神権の後に中世・近世と続く他の世界と著しく違ったことも、縄文人が見た何かが関係しているであろう。そこで、目に見えぬもの、無明の闇が見える縄文人の物品終末集団奉納について事実を調べた。その結果の一つを以下に示す。

中央構造線愛好家

加藤 覚

2026年正月

縄文研究その2の主題 魂ぬき(たまぬき)

鎌倉時代の石うすの殆どは破壊されて出土する[1]。民族は「魂ぬき」と、鎌倉時代には文字があるので、明らかにしている[1, 2](富士見町史[1]は民俗学を民族と呼んでいるのでそれに従う)。石うすは鎌倉の前、平安、奈良、飛鳥、古墳、弥生時代には出ない[1]。縄文に出る石うすは、やはり、殆どが破壊されて出る[1]。縄文の石うすと同時に、縄文の土偶・土器・石器・網籠などが奉納場所(竪穴住居廃屋窪地)から壊れて出土する[3]。すなわち、縄文の土偶の破壊、土器の破壊、石器・石うすの破壊、網籠の破壊は、鎌倉時代の石うす破壊と同じく、「魂ぬき(たまぬき)」を意図していた。

 富士見町井戸尻考古館は石器の展示が過半を占めているので、富士見町史に従って「石うす」を定義する。富士見町史によると「石うす」は回転式石臼の他に外縁の一部が切れていて面積の大きい平面状底面を持つ。「石皿」は底面積が小さくくぼんでいる。「凹石」は外縁に切れ目がない。擦り石と石餅は石鹸状であり、窪みがない。

 鎌倉時代と縄文時代の石うすの破壊にはもう一つ必須条件がついていて、「破壊された石臼の破片から完形を作ることができず、破片の一部は出土場所と違うところに埋められていて、多くの場合に行方知れず」ということである[1]「完形」とは壊れたものの全ての部位がそろっていて、元の形を再生できるということである。この研究では、壊れていない、完全無欠状態で出土する土器を「完全無欠土器」と定義して「完形土器」と区別する。魂ぬき(たまぬき)の条件をまとめると、以下となる。

イ)         破壊されている

ロ)         破片の一部は見当たらず、再生すると欠損している

なぜ魂ぬきをするかについては、証拠がないので予測するしかなく、事実のみに基づく「縄文研究その2」においては考証しない。

 上記2条件を縄文の土器、土偶に当てはめると全くもって「その通り」と納得できる。反証を探すのが難しいほどである。土偶については、上記2条件を満たしていると、縄文に興味ある万民が認めるところであるので更なる研究対象としない。縄文の土器破壊については、現在の縄文考古学では、壊れて出てくる理由は定かにはなっておらず、人それぞれの判断に任されている。次の縄文研究その3の研究テーマである。すなわち、次の縄文研究では、「出土する縄文土器のすべてが条件イ)とロ)を満たしているので魂ぬき(たまぬき)された」を実証実験によって立証するのである。

文献

[1] 富士見町史 19913月発刊、p. 237

[2] 三輪茂雄著 「臼」 法政大学出版局 1978

[3] 中山真治、国立歴史民俗博物館研究報告 第172集 20123