縄文研究その1 ---弱肉強食生物則に対抗--- 守矢神長官による狩猟縄文は関ケ原の合戦まで永存
はじめに
守屋山は海から出て百万年前には今の姿になっていた。岩盤は急峻で東に下り降り、フォッサマグナ西縁を作っている。房総沖から流れ込んだ土砂が東西日本の間にあった海を埋め、フォッサマグナ西縁は谷底になっている。その上をおおよそ南北に国道20号が走る。実は、大昔にバイカル湖と接していた中央構造線は今この地で北に向かい、分抗峠、杖突峠、その先へと進んでいた。しかし、この土砂流によってかき消されてしまい、フォッサマグナ西縁に衝突して終わっている。その衝突角で南かつ山側に前宮(諏訪大社上社前宮)がある。放送大学の授業で魚住講師は「前宮は日本で一番古い創建で、おそらくは、紀元前」と言った。それなら、旧石器人(3万8千年前の原始人)もその後の縄文原始人も、弥生原始人も山が巡る絶景を見たに違いない。ついには、神を見て前宮創建となったはずだ。このような原始時代への興味から地域族長の守矢氏による神権について事実を調べた。その結果の一つを以下に記す。
中央構造線愛好家 加藤 覚
(茅野市豊平にて、2026年1月)
縄文研究その1の主題 弱肉強食の生物則に屈しなかった原村・富士見町・茅野市における狩猟縄文は守矢神権による大和王権への対抗を経て関ケ原の戦まで残存した
八ヶ岳西南麗に原村・富士見町・茅野市はある(原始時代の遺跡密度は原村が2.5遺跡数/km2[文献1]、富士見町が1.5遺跡数/km2[2]、茅野市が1.3遺跡数/km2[3])。これらの市町村では古代において大和王権(古墳時代)の武力圧力に屈しなかった。この地の縄文は関ケ原の戦まで生き延びた。弱肉強食の法則に従わなければならない生物の世界で、天敵強者から逃げるのではなく、攻撃させなかった。これは稀なことである。-------- 現代でも武力に対して神権対抗は通用するのであろうか------。「弱肉強食の生物則に屈しなかった原・富士見・茅野における狩猟縄文残存の原因は守矢神権による対抗である」という証拠四つを以下に示す。
証拠 一 守矢神長官の来歴と神野(こうや)
神権による対抗は守矢神長官あってこそ。「もりや」の名は古事記に出てくる。守矢神長官の来歴は、茅野市神長官守矢史料館の入り口に掲げられている高札が分かりやすいので以下に示す(原文は墨書縦書き)。
守矢家について(茅野市神長官守矢史料館の入口にある高札の写し)
今から千五百年の昔大和朝廷の力が諏訪の地におよぶ以前からいた、土着部族の族長で洩矢神と呼ばれ現在の守屋山を神の山としていた。しかし、出雲より侵攻した建御名方命(たけみなかたのかみ)に天竜川の戦に敗れ建御名方命を諏訪明神として祭り自らは筆頭神官つまり神長官となった。中央勢力に破れたものの祭祀の実権を握り、守屋山に座します神の声を聴いたり山から神を降ろしたりする力は守矢氏のみが明治維新の時まで持ち続けた。この史料館はそうした守矢家が伝えてきた古文書などの歴史的資料を七十八代守矢早苗氏より茅野市が寄託を受け地域の文化発展に資するため建設された。
ここに、洩矢神とあるが、守矢氏系譜[守矢早苗著、「守矢神長官のお話し」神長官守矢史料館のしおり p. 11]および文献[4]によると、洩矢神は初代神長官洩矢ノ神とは異なり、祖先となっている。その数百年後の587年に丁末の乱に敗れた物部守屋大連の子孫の一人、および、その600年後の1184年にあった一の谷の合戦で敗れた平忠度の末子も神長官家に養子として入り、これらの末裔は鎌倉時代には神家党と呼ばれる武士団をつくった[5]。守矢氏は権謀術数に長けていて、深謀遠慮した。大昔には洩矢神と呼ばれ、中央勢力に敗れたのちには勝者を諏訪明神に祀り上げて自分は祭祀の実権を握った(神業1と2)。
広大な諏訪大社の社領を神野(こうや)と呼ぶ[6, 7]。神野は縄文残存の主域である。神野の説明として原村の資料[6]が判りやすいので、「神野(こうや)とは=現在の原村地域周辺」の段全文を以下に引用する。
神野の棒道(文献[6])より引用
諏訪郡の八ヶ岳の麓は原山といい、神野といって、諏訪明神年内四度の御狩神事の行われた斎場として鎌倉幕府に保護され、神禁の地として耕作を許さず、人の住むことを禁じた地である。鎌倉幕府倒れし後再興を狙った北条時行による中先代の乱の首謀者となった諏訪氏は、朝敵として追悼を受け滅亡に瀕した、辛くも原山に隠れて生き延びたが、このことによって諏訪明神の祭礼は寂れてしまった。武田氏興るに及び諏訪氏は武田氏によって滅びたが、武田信玄は諏訪明神を奉じて信濃の治安とともに全国の制覇に利用し、原山は再び神禁の地となった。
信玄は諏訪氏を滅ぼしたが守矢神長官には神域を安堵した[11]。洩矢神と呼ばれたこと、「タテミナカタノカミ」を明神に祭り上げて神長官の実権を握ったことに次ぐ3番目の神業、権謀術数であろうか。
証拠二 神野(こうや)の始まりは縄文晩期、茅野交差点から信濃境の範囲
茅野交差点から南、信濃境(富士見町)までの間は人の立ち入り(神職も含む)が禁止され[8]、諏訪大社上社の神官が執り行う御狩神事のみが許された神域(神野[こうや]という、原山ともいう)であった[6 – 8, 10上巻p.482]。神野に鉄の矢じりを持った古墳人が攻め込まなかったことは、茅野交差点から信濃境まで古墳群がない[3]ことからわかる。石矢じりで戦う縄文原始人との戦いがあったとしたら勝者は明らかに鉄矢じりを持つ古墳古代人であろう[9]。古墳群のない茅野交差点から信濃境までが初期の神野の範囲である。古墳人を寄せ付けなかったことは守矢神長官による神業4である。
神野においては、縄文晩期から古墳時代まで原村には遺跡がない[10, 上巻p.447]。北に位置する茅野市には一か所(茅野交差点に近い御社宮司遺跡)が縄文晩期から平安時代の遺跡として残る[文献10上巻p.448, 文献12 p. 510]。南の富士見町には井戸尻遺跡近隣の大花遺跡が縄文晩期の遺跡として、また、弥生時代遺跡として井戸尻遺跡(富士見町信濃境駅近隣)が残るのみである[2,
10上巻p.448]。室町時代に書かれた諏訪大明神絵詞[7,
10上巻p.482]によると、御狩神事が行われた原山の場所は、五月に押立(信濃境押立山とは異なり原村八ツ手[10上巻p.482])、六月に御作田、七月に御射山と九月の秋尾(阿久のこと、中央道原PA近隣で八ヶ岳西麗段丘の下端)である[7, 10上巻p.482]。何れも前宮を出発し、柏木(現阿久交差点)で別れ、10km程度の範囲内で四か所それぞれの御狩神事を行っている。一方、文献[8]の信玄棒道高札には神域の範囲は韮崎から長和までとあり、1356年に書かれた諏訪大明神絵詞[7]では初期の範囲内にあった神野は、信玄が神領を保全した時[10, 11]には韮崎から長和までに広がっている。
縄文中期にあれほど栄えた八ヶ岳西南麗の縄文は晩期には住居跡がほとんどなくなる。唯一大きな活動跡は御社宮司遺跡(主に縄文晩期遺跡)であり、晩期に特徴的な石矢じり(石鏃)が422点も出土している[12 p.518]。御社宮司遺跡は守屋山を西に、南北に走る八ヶ岳連峰を東に遠く見る谷の底にあり、茅野交差点の隣にある。谷には国道20号が南北に通り、道は南の原村、富士見町、さらには、山梨県北杜市へと続く。神長官守矢が神官を務めた諏訪大社上社前宮は西北へ数キロ離れている。御社宮司遺跡に住居跡はほとんどない。しかし、石矢じりや晩期に特徴的な石斧などの遺物(人骨を含む)は、縄文の廃物品(土器・土偶・石器・織物など、人骨を含む)終末奉納場の例[13]にならって窪地から出土している(奉じられている)。御社宮司遺跡は洩矢神(初代神長官洩矢ノ神の祖先)が差配する戦闘用矢じりの保管場所であったろう。後代に鉄矢じりをもった古墳人が御社宮司遺跡から南に進行しなかったのは、ここに戦闘用武器が保管され、洩矢神あるいは末裔による神権威圧を見たからである。----- 神権が威力を発揮するためには革新的武器が必要である-----。中国殷の青銅製盾鉾が良い例である。洩矢神による神権発揮の例では、革新的武器は、御社宮司遺跡から大量に(打製423個体と磨製21個体[12 p.518], [14])出土した刃先幅広石斧である。晩期には人がいなくなってしまい樹木伐採、土耕用の石斧は必要なくなったにも関わらず縄文晩期御社宮司遺跡において縄文前期阿久遺跡から出土した石斧(合計13個体[12])よりはるかに多く444個体も貯蔵されていた。対する古墳人は鉄の刀剣をもっていたが[9]、数は部族長の墓から出土する刀剣に限られる。多数の刃先幅広石斧による振り回し衝撃破壊力は圧倒的である。縄文狩猟民が作り出した刃先幅広石斧は狩猟縄文を長く(関ヶ原戦後まで)残存させた。さらに、時折も味方した。当時諏訪湖の水位は高く、御社宮司遺跡周りを伏せ盆状に残す水城であり[14]、大和朝廷側は容易には南進できなかった。
証拠三 神野の終わりは関ケ原の合戦
神野は高島藩(復興した諏訪氏)が原山の新田開発(現在の原村)を始めたときに終わる[6]。信玄と同じく家康も神域を保全したが[17]、小田原攻めと関ケ原の戦いで功を挙げて諏訪の地を再び得た諏訪氏は原山の新田開発を進めた。また、高島藩は立ち入り禁止の藩林を神野の中に設定した[15]。
証拠四 神野の変遷
立ち入り禁止の地で神官のみが許され御狩神事を行う場所が神野の定義である[8]。この定義に合致する最初の神野は縄文前期後葉の阿久遺跡(中央道原PA近隣)に現れる。阿久第V期(今から6000年前ころ)に住居跡は二つだけに減り、祭祀のたびに周りから人々は集まってきた[16]。墓穴(墓壙)は700を超える[10]。その後、八ヶ岳西麗に於いて縄文が大いに栄えた中期には阿久は無人となった。室町時代に書かれた諏訪大明神絵詞[7]では、秋尾(あきほ平にあり、阿久近隣[10])において御狩神事が行われたとある。さらに、他に例のない円型庭火が縄文前期の阿久遺跡における神事と同じように行われた。これらは「神野の神事の最初は縄文前期末の阿久遺跡における庭火である」という可能性を示している。しかし、確証がない。
鎌倉時代以前から守矢神長官が主宰する御狩神事は頼朝の後援を得て、また、鎌倉幕府の後援を得て、一大アミューズメント、オリンピアとして大いに栄えた[10上巻 p.482]。諏訪大社上社御射山(富士見町)のみならず、下社御射山(和田峠近隣)においても御射山祭(ハラヤマサマ)が行われるに及び、多くの御家人が集い、カワラケを大量に残した。鎌倉時代における神野の北限(和田峠近隣)は後に信玄が保全した北限(長和)に近い。鎌倉時代の後に首謀者北条時行が中先代の乱(1335年)に敗れてから諏訪大社の神事は寂れた[6]。しかし、室町時代には御狩神事は上社の神事として執行され続けた[7]。信玄が守矢神長官に保全した神領の安堵状[文献10 p.533],[11]では「神事は旧来のとおりにせよ」とあるので、神野の南限は初期と変わりがない。
鎌倉時代の後に諏訪氏の首謀者北条時行が中先代の乱(1335年)に敗れて原山に隠れたが[6]、「神禁の地として耕作を許さず」は犯していないので神野は継続する。類似の騒動はその後に書かれた諏訪大明神絵詞[7]にも記されていて、神事のない十月以降に神野を犯すものが出没するとある。信玄棒道高札には「立ち入り禁止の地で神官のみが許され御狩神事を行う場所が神野」とあるが、実際には、鎌倉時代以降を見ると、神長官を先頭にして大勢が隊列を組んで前宮から発進し神事を行っている[10上巻]。
神野の西北端は茅野交差点であり、西端は国道20号、南端は信濃境、東端は御作田(茅野市御作田)を通り南北に走る国道17号である。御作田では室町時代に御狩神事が行われている[7]。神野の外で東側八ヶ岳山麗には弥生時代の小規模遺跡が残る。御猪岩遺跡などである[12
p.623]。また、16000点の黒曜石片(八ヶ岳冷山産)が出土した旧石器時代・縄文時代の夕立遺跡も八ヶ岳山麗に残る[17, 18]。八ヶ岳西南麗に中期の縄文が栄えた理由は、ここに段丘があるからである。その段丘の下半はそのまま神野として残った。富士見町では古八ヶ岳崩壊による七里岩屑流れにより段丘は消されてしまったが、信濃境の峰が信州であると区分している。
神権威圧がなければ狩猟縄文は残らない。御社宮司遺跡より北の茅野市には多くの古墳群がある[3]。また、縄文遺跡密度1.1遺跡数/km2と縄文が栄えた辰野町にも古墳群がある[19]。これらの場所で御狩神事が行われた記録は見当たらない。一方、これらの場所では縄文中期に、原村など神野の範囲と同じように、多くの住居跡が見いだされているので、神野の始まりは縄文中期ではない。後期以降である。
信玄は神領を保全した[11]。その後、信長団により上社社殿は焼かれ武家の圧迫を受けたが、守矢神長官はひるまなかった。それどころか、例の権謀術数を最大限に発揮し、二股外交によって家康((酒井忠次書状、神長官守矢史料館蔵)から神領安堵を得た[20, 21]。縄文時代から深謀遠慮して古墳人を寄せ付けなかった事、および、信玄により諏訪氏は断絶させられたのに守矢神長官には神域を「旧来のとおりにせよ」と安堵させたことに続く神業5であろうか。
おわりに
推測を除いて事実のみをつなぐと、古墳群のない茅野交差点から信濃境までが古墳時代の神野である。茅野交差点から信濃境までは一貫して神野であった。家康による神域保全を破って高島藩が新田開発を始めたときに神野は終わる。神野は神官による御狩神事のみが許された場所であり、狩猟縄文の生き残りであった。
神権時代は武力による混乱時代へと続く。中国では周時代の後に春秋・戦国の混乱に陥った。日本では平安神権時代の後に鎌倉・室町・戦国時代の混乱に陥った。ところが、八ヶ岳西南麗では、守矢神権時代の後は身分制度(士農工商)がある江戸・近世に入ってしまった。稀なことである。
文献
[1] 原村の文化財ガイドブック第12集 「星降る村の足跡」原村教育委員会、2023年3月発行
[2]「富士見町の遺跡」長野県富士見町教育委員会、2015
[3] 茅野市遺跡分布図<https://
www.city.chino.lg.jp/site/jomon/1827.html>
[4] 神長官守矢家系譜、諏訪教育会、「復刻諏訪史料厳書」巻28 1938年8月20日発刊、p. 31
[5] 守矢一男編著、「よみがえる縄文のミシャグチ神-歴史を駆ける洩矢ノ神-」(セミコンキカク、2017年5月発刊)
[6]「神野の棒道」原村の棒道を探り拓く会、2010年3月発行
[7] 諏訪大明神絵詞<https://ja.wikipedia.org/wiki/諏訪大明神絵詞> 神長官守矢史料館蔵
[8] 八ヶ岳美術館 「信玄棒道」高札
[9] 茅野市八ヶ岳総合博物館「茅野の古墳」展、2025年
[10] 原村史上巻1985年7月発刊、下巻
[11] 信玄神領安堵状 神長官守矢史料館蔵
[12] 茅野市史上巻1986年3月発刊、p.510
[13] 中山真治、国立歴史民俗博物館研究報告 第172集 2012年3月
[14] 御社宮司遺跡・中村・外垣外遺跡発掘報告書 長野県埋蔵文化財センター 2009年3月
[15] 富士見町史上巻 1991年3月
[16] 「阿久遺跡」大昔調査会、2023年10月発刊
[17] 両角太一・須藤隆司・茅野市教育委員会、「夕立遺跡の黒曜石原産地推定と両面調整システム」、資源環境と人類 第13号 77-96頁 2023年3月
[18] 槻木史 2010年 3月発刊
[19] 辰野町遺跡一覧表<遺跡一覧表>
[20] 「徳川家康とその時代」茅野市神長官守矢史料館、2023年4月29日
[21] 「八ヶ岳通信 No. 42」茅野市の博物館・文化財だより、2024年3月31日
完